t-1 try-2 2014/03/08 T-1お試し歩き

熊野宮の額が掛かる鳥居。この下まで戻り、管理の手間が掛からないルートを記録する。 程なく、旧道から出てきた皆さんに追いついた。500mくらい遠回りしたかな。追いつくのに結構息が上がりました。

「ひらの分校計画」の看板が掛かった、旧分教場の校舎。

旧道にあったトンネル。今は金網で塞がれています。

随願寺到着 10時34分

随願寺跡へ到着した。熊野磨崖仏を出発してから1時間、距離で3km弱。真木大堂/傳乗寺すぐ手前の左手。

小さな堂宇があり、その前に、随願寺縁起と書かれた石碑に謂われが刻まれていたので、それを以下に転記した。


随願寺
六郷満山分末寺に一つなり。養老年間、馬城山傳乗寺三十六坊の一坊として創始、一時寺観壮麗を極めたりと言うも、今は唯九尺四面の堂宇を存ずるのみ。
断礎塔碑累々として往時の盛観を偲ばしむ、ものふりたる堂内には、逗子に下御門本尊地蔵仏を安置す。
「随願寺」と墨書きした扁額、その裏に残る墨筆。
六郷満山峯入行者祈禱墨書柱・二柱(文化十四年・天保八年)格子戸に墨書、彫刻された欄間・長押に唐草模様を遺す。

老朽化にともない平成十五年二月に小畑道治の遺志をつぎ妻京子これを再建す。
落慶にあたり之の碑を建立し後世に遺す。                          
小畑光則

随願寺堂宇内

熊野権現から御輿に祭神を乗せて練り歩く、神幸祭が行われていたが、今は過疎高齢化によりその祭事は中断されている。



真木大堂(説明書き転記) 10時43分

開基:馬城山伝乗寺は八幡神の化身と言われる仁門菩薩により養老二年(七百十八年)に開基されたと伝えられています。

沿革:真木大堂は、馬城山伝乗寺の古地として現在も多くの諸仏を守り続けています。
これらの諸仏は安貞二年(1228年)の「六郷満山諸勤業並諸堂役諸祭等目録」の「喜久山」の項で「本尊丈六の金色阿弥陀如来、丈六の不動尊、同大威徳、種々の勤め等中絶す」と記された仏像と考えられます。
しかし、安貞二年の目録には馬城山伝乗寺の名称は確認されず、建武四年(1337年)の「六郷山本中末寺次第並四至等注文案」によって初めてその名称が確認されます。このことにより、馬城山伝乗寺は安貞二年から建武四年の間に、喜久山が廃絶したため新しく建立され仏像が移されたか、もしくは喜久山は馬城山伝乗寺の前身の寺院であり、この期間に改称された考えられています。
六郷満山本山寺八ヶ寺の一つとして三六坊を有し、満山の僧たちが修行に励む長講所としても賑わいをみせていたと伝えられる馬城山伝乗寺でしたが、中世以降は衰退をたどり江戸時代にはかろうじて現存する本堂一宇を残すのみとなりました。

灯明石や宝物の説明をしている後藤さん。

真木村の古地図


菊花の紋章御下賜由来(説明書き転記)

この本堂は永い間仏像を安置してあった旧本堂で、正面朱塗りの扉には皇室の御紋章があります。

これは今から七百年前、鎌倉時代に蒙古軍が文永十一年と弘安四年に襲来した時、執権鎌倉幕府は教書を発し、これをうけて豊後守護職が六郷満山の寺院に対し、異国降伏の祈祷を行うよう施行状を発しました。

仁門菩薩・八幡大菩薩の霊場であり、六郷満山本山本寺として七堂伽藍と三十六坊の霊場を有し、六位郷満山の長講所(学問所)であった馬城山伝乗寺で、国難を救うため長期にわたり、異国降伏の大祈祷が行われました。

その恩賞として弘安八年十月十六日、将軍家を経て朝廷より菊花の御紋章は下賜されたもので、全国でも他に類例を見る事が出来ません。今往時を想起したときまことに感無量なるものがあります。

この石段をのぼると金比羅宮と六所宮が祀られている。

国東半島の代表的な石造文化財が多数集められて展示されている。